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0103_アラン・ケイ_Dynabook Concept

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Q1. アラン・ケイが「パーソナルコンピュータの父」と言われているのは何故でしょうか? ➡️
Q2. 「未来を予測する一番いい方法は、自らそれを創ることだ」というのは、どういう意味でしょうか? ➡️
Q3. 「ダイナブック構想」というのは、どういったものなのでしょうか? ➡️
Q4. パロアルト研究所というのは、どういうところだったのでしょうか? ➡️
Q5. アラン・ケイというのは、どういう人なのでしょうか? ➡️
A1. アラン・ケイが「パーソナルコンピュータの父」と言われているのは何故でしょうか?

現代のGUIグラフィカル・ユーザ・インターフェイス)ベースのパーソナルコンピュータ、スマートフォン、タブレットの原型を作った人だからです。1972年、アラン・ケイは「未来のパーソナルコンピュータの理想型」をDynabook(ダイナブック)と名付け、タブレットの形をしたパーソナルコンピュータで2人の子供が遊んでいるイラストで描きました。そして、Alto(アルト)というミニコンピュータ上で「暫定的Dynabook」を開発。アップルが、これをもとに1984年、世界初の商用GUIパーソナルコンピュータMacintoshを発売。マイクロソフトが1995年にWindows 95を発売しました。アップルは、さらにDynabookの実現に近づこうと、2007年にiPhone、2010年にiPadを発売しましたが、アラン・ケイは「Dynabookはまだ実現していない。実現するのはこれからである」と言っています。
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「未来のパーソナルコンピュータの理想型」Dynabook

アラン・ケイとAltoとキーボード。彼はプロのミュージシャンでもあった

A2. Dynabook Conceptというのは、どういったものなのでしょうか?

アラン・ケイが1972年に発表した「A Personal Computer for Children of All Ages(すべての年齢の子ども心を持った人たちのためのパーソナルコンピュータ)」という論文の中で提唱した「未来のパーソナルコンピュータの理想型」です。直感的にわかりやすい対話型のGUI(を備え、子どもでも操作することができ、片手で持ち運び可能で、価格は500ドル以下。普通の本が静的(スタティック)であるのに対して、音声、動画も扱える動的(ダイナミック)な本のようなもの」という意味で、「Dynabook(ダイナブック)」と名付けました。
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A3. GUIというのは、どういったものなのでしょうか?

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A4. パーソナルコンピュータの歴史の中でGUIはどう位置付けられるでしょうか?

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A5. 「未来を予測する一番いい方法は、自らそれを創ることだ」というのは、どういう意味でしょうか?

“The best way to predict the future is to invent it.”
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【参考動画/reference movie】

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【参考ページ】
アラン・ケイ(wikipedia)


アラン・カーティス・ケイ(Alan Curtis Kay, 1940年5月17日 – )は、アメリカ合衆国の計算機科学者、教育者、ジャズ演奏家。パーソナルコンピュータの父、と言われることもある。主に、オブジェクト指向プログラミングとユーザインタフェース設計に関する初期の功績で知られている。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」という言葉でも知られている。
マイクロコンピュータ以前の時代に、個人の活動を支援する「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱した。つまり1960年代当時、高価で大きく、複数人で“共有”するのが当たり前だったコンピュータに“個人向け”という利用状況を想定し、それに相応しいコンピュータ環境がどうあるべきかを考えた人。自らがそう名付けた「ダイナブック構想」の提唱者。「コンピュータ・リテラシー」という言葉も彼が造った。

■ダイナブック(Wikipedia)


ダイナブック(Dynabook)とは、アラン・ケイが提唱した理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)である。
ダイナミックメディア(メタメディア)機能を備えた「本」のようなデバイスという意味で、ケイが1972年に著わした「A Personal Computer for Children of All Ages」に登場する(なお、このときの表記は商品化を想定した「DynaBook」。後に一般名詞を意識してDynabookと改められる)。
ケイの構想したダイナブックとは、GUIを搭載したA4サイズ程度の片手で持てるような小型のコンピュータで、子供に与えても問題ない低価格なものである。同時に、文字のほか映像、音声も扱うことができ、それを用いる人間の思考能力を高める存在であるとした。また、構想の時点ですでにネットワークやマルチフォントに対応することが想定されており、実際、その後作られた暫定的な実装(後述)にも、今でこそ一般的だが当時としては斬新なマルチウインドウやメニューなどと共に取り入れられた。1977年の「Personal Dynamic Media」という論文に実現されたそれらの機能の詳細が記されている。
こうしてケイらがゼロックスのパロアルト研究所在籍時に「暫定ダイナブック」と称して開発したのが、Smalltalkを GUIベースのオペレーティングシステムに用いて動作させていたAltoや、より小型・可搬でバッテリ駆動も可能だった NoteTaker で、特に前者については 1979年末にこれを見たスティーブ・ジョブズが Lisa 、そしてMacintoshを開発するきっかけとなったとされる。

■グラフィカルユーザインタフェース(Wikipedia)

グラフィカルユーザインタフェース(Graphical User Interface、略称:GUI)は、コンピュータグラフィックスとポインティングデバイスなどを用いる、グラフィカル(ビジュアル)であることを特徴とするユーザインタフェース。キャラクタユーザインタフェース (CUI) やテキストユーザインタフェース (TUI) と対比して語られることが多い。
1960年代の米国において、サザランドのSketchpadや、マウスの発明者でもあるダグラス・エンゲルバートによるNLSなどといった、(軍用などの専用目的ではなく、汎用を意図した)初期のGUIシステムが開発された。NLSはエンゲルバートの提唱する「人間知性の拡大」という概念を実現するために作られており、ハイパーテキスト、ハイパーリンク、マルチウインドウなどの今日的なGUIには必須の概念を実装して見せたきわめて革新的なものである。またジャーナルと呼ばれるハイパーテキストベースの文書共有システムは正にWikiと同じ概念である文書によるコラボレーション・グループウェアを実装したものである。NLSの本質は単なるGUIの実装ではなく、GUIは会話・画像・文書をリアルタイムで共有する電子会議を通じた知的共有グループウェアを実現するための手段であった。さらに、後にWYSIWYGと呼ばれることになる機能もこのとき既に実装されていた。
1970年代には、アラン・ケイにより、誰でも簡単に使えることを目指して暫定Dynabook環境が作られた。当初はData General社のNovaでスクリプト言語的な位置づけで開発されたSmalltalk-72だったが、約5〜10倍の能力とビットマップディスプレイ、マウスを装備したAltoへと移植され、マシンパワーを得るとすぐにオーバーラップ可能なウインドウシステムの構築が試みられた(Smalltalk-74)。このマルチウインドウシステムを効率よく機能させるために後に考え出されたダブルバッファリングおよびBitBltは、現在も、ちらつきのない画面描画のために使われるアルゴリズムおよびデータ操作/ハードウェア機能として知られる。

1974年までには、後にMicrosoft Wordの前身と言われるようになるBravoを開発していた別グループとの情報交換を経てパロアルト研究所初のWYSIWYGエディタも実装される。70年代半ば過ぎにはマウスによる操作、メニューによる命令実行、オーバーラップマルチウインドウシステム、絵と文章の共存できるWYSIWYGのマルチフォントエディタ、アイコンによる機能やオブジェクトの簡易表現など、現在ごくふつうに見られるグラフィカルユーザインタフェースの主要な要素は固まっていた。Smalltalk-72、同-74の後継であるSmalltalk-76ではさらに洗練・整備され、それを1979年に見たスティーブ・ジョブズが策定中のLisaの仕様決定に役立てた[3]。

■未来を予測する最善の方法は、それを発明してしまうこと(THE 01)


October 1, 2015 18:00
by 牧野武文

ダイナブックが広く知れ渡ったのは、ケイが1972年に書いた「あらゆる世代の子どもたちのためのパーソナルコンピューター」(A Personal Computer for Children of All Ages)という論文が発表されてからだ。この中から、ケイのダイナブックがどんなものであったかを紹介してみよう。
ケイはこの論文の中で、ダイナブックがどのように使われることになるかを、具体的でわかりやすい2つのストーリーで紹介している。ひとつはベスのお父さんが出張するときに使うストーリーで、もうひとつはベスと友だちのジミーが対戦ゲームで遊ぶというストーリーだ。
ベスの父親は、会議に出席するために飛行機に乗っている。ダイナブックに入れておいた資料を見ながら、ところどころ音声でコメントを入れていく。この音声コメントは、あとで秘書がタイプしなければならなかったが、ダイナブックのメーカーは近々、音声認識の機能を追加すると約束していた。
空港に着いて、彼はストーリー販売機を見かける。ダイナブックをストーリー販売機に接続をして、以前から読みたかったストーリーを購入しようとするが、クレジットが不足しているために買えなかった。“ストーリー”に関する説明をケイはしていないが、映画と本がいっしょになったようなコンテンツなのだろう。
その頃、ベスとジミーは、学校の芝生で2台のダイナブックを使い、「宇宙戦争」というゲームで対戦していた。しかし、ジミーはそのゲームがリアルでないことに気が付いた。本当の宇宙船であれば、太陽の引力に引っ張られれて、このゲームのようには飛ばないはずだ。ジミーはすぐに宇宙戦争ゲームに、太陽の引力の影響を付け加えようとしたが、どのようにしたらいいのかが分からない。そこで担任であるヤコブソン先生に相談してみると、先生は何冊かの本を読むように勧めてくれた。ジミーはすぐにダイナブックを学校のネットワークに接続して図書館にアクセスし、太陽の引力についての本を読み始めた。そして、宇宙戦争ゲームに太陽の引力の要素を付け加えて、再び遊ぶのだった。

ケイはダイナブックの外観も決め、大きさも記している。それによると横9インチ、縦12インチ、厚さ3/4インチになる。重さは4ポンド。横20センチ、縦30センチ、重さ1.8キログラムぐらいの感覚で、現在のiPad Airよりも一回りか二回り大きい感覚だ。

キーボードがついているところが、iPadと異なるが、ケイは機械部分のない感圧式のキーボードにすることを提案し、さらに液晶画面を全面に広げ、スクリーンキーボードにしてしまうことまで提案している。液晶パネルの四隅に圧力センサーを置くことで、どのキーを押したのかを感知することができるとしている。こうなると、使われている技術、また技術の水準に違いはあるものの、コンセプトとしてはまったくiPadと変わらない。ケイがこの論文を公表したのは1972年。43年も前の話なのだ。

「個人でコンピューターを使う=パーソナルコンピューター」という発想を最初に形にしたのは、1945年に「As We May Think(私たちが考えるように)」という論文を発表したバネバー・ブッシュだろう。ブッシュはこの論文の中で、初めて「個人が情報を処理するために使う機械=メメックス」を発表した。メメックスとはメモリー・エクステンド(記憶の拡張)を略して作った造語だ。厳密には、マイクロフィルムをベースにした論文閲覧機で、コンピューターではなかったが、今日のテキストリンクに関する考え方を示している画期的なものだった。ただし、ブッシュはエンジニアではなかったこともあり、メメックスを開発しようとは考えなかった。

このメメックスを提案した論文は、一般雑誌である『LIFE』にも転載された。そのLIFEの記事を、フィリピンの小島に仮設された米海軍の兵舎の中で、夢中になって読んだレーダー技師がいた。彼の名はダグラス・エンゲルバート。エンゲルバートは「個人がコンピューターを使う」という部分に惹かれ、戦争が終わったらそういうコンピューターを作ってみたいと考えるようになった。戦争が終わると、エンゲルバートはオレゴン州立大学に復学して、電気工学の学士号を取得した。
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■パロアルト研究所(Wikipedia)

パロアルト研究所(パロアルトけんきゅうじょ、Palo Alto Research Center、PARC)は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州パロアルトにある研究開発企業である。
概要
複写機大手の米ゼロックス (XEROX) 社が1970年にアーキテクチャー・オブ・インフォーメーションの創出を目標として開設した。コンピューターサイエンス方面に与えた影響が大きく、マウス、Smalltalk、イーサネット、レーザープリンターなどの発明が行われ、他にグラフィカルユーザインタフェース (GUI)、ユビキタスコンピューティングなどの研究開発も行っている。デバイス領域ではVLSI、半導体レーザー、電子ペーパーなどの研究を行う。開放的な気風だといわれた。
2002年、ゼロックスの完全子会社となり、医療技術、「クリーン・テクノロジー」、ユーザインタフェース設計、sensemaking、ユビキタスコンピューティング、エレクトロニクス全般、組み込みシステムや知的システムなどについて研究を行っている。
歴史
1969年、ゼロックスの主任科学者ジャック・ゴールドマンは、セントルイス・ワシントン大学の学長だった物理学者ジョージ・ペイク(核磁気共鳴の研究で有名)にゼロックスの2番目の研究センター設立への援助を依頼した。
ペイクはその場所としてパロアルトの土地を選び、そこにパロアルト研究所が建設された。ゼロックスの本社は当時ニューヨーク州にあってかなり遠く、新たな研究所の科学者らは自由に研究でき、運営の独自性もある程度確保されていた。
パロアルト研究所が西海岸にあったことは1970年代には利点となった。すなわち、すぐ近くにスタンフォード研究所 (SRI) の Augmentation Research Center(ダグラス・エンゲルバートの研究所)があり、DARPA、NASA、アメリカ空軍からの資金で運営していたものの、1970年代には縮小傾向になっていた。そのため、優秀な技術者や科学者を雇うことができたのである。
パロアルト研究所が本拠を置くコヨーテ・ヒル・ロード3333番地はスタンフォード・リサーチ・パーク(英語版)の一角にあり、スタンフォード大学の所有する土地である[1]。そのため、スタンフォード大学の大学院生がパロアルト研究所の研究プロジェクトに参加することも多く、逆にパロアルト研究所の科学者がスタンフォードでのセミナーやインターネットなどのプロジェクトに協力することもある。
初期のパロアルト研究所がコンピュータ関連で成功したのは、計算機科学研究室の責任者ロバート・テイラーのリーダーシップによるところが大きい。
沿革
1970年7月1日 – 公式に開設。当初の所在地はポーター・ドライブ 3180番地。
1972年 – Smalltalk の最初のバージョンが利用可能になる。
1973年 – Alto が動作する。
1973年8月 – コヨーテ・ヒル・ロード3333番地に本拠の施工を開始。広さは10万平方フィート。
1975年2月 – コヨーテ・ヒル・ロード3333番地に本拠が竣工。3月1日付けで開設。
1978年 – 研究員がワームを発明する。
1979年 – スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツが見学に訪れる。
1982年 – コヨーテ・ヒル通り 3333 で10万平方フィートの拡張が完了。
2002年1月4日 – Xerox Palo Alto Research Center から Palo Alto Research Center Incorporated へと名称を変え、独立した会社組織となった(ただし、ゼロックスの完全子会社)。
成果
マウス
レーザープリンター
コンピュータによるビットマップ画像生成
ウィンドウとアイコンを使ったグラフィカルユーザインタフェース (GUI)
WYSIWYG方式のテキストエディタ
Interpress (解像度に依存しないグラフィカルなページ記述言語。PostScriptの原型)
イーサネット
Smalltalkとその統合開発環境(オブジェクト指向プログラミング)
液晶ディスプレイ
光ディスク
ユビキタスコンピューティング
アスペクト指向プログラミング
IPv6
Alto
パロアルト研究所でのコンピュータ関連の成果をまとめ、スタンフォード研究所で開発されたマウス[2]を加えたのがAltoである。これには、現在のパーソナルコンピュータの基本要素が全て備わっている。これにさらにイーサネットを統合したことで PARC Universal Packet の開発につながった。これは今日のインターネットとよく似ている。

GUI
ゼロックスは、パロアルト研究所の成果の価値を見抜くことに失敗したとよく言われる。特に指摘されるのがGUIについてである。しかし、実際には製品化は行われており、Xerox Starを発売している。その後のシステム設計に多大な影響を与えたが、高価だったために約25,000台しか売れず、商業的には失敗した。ロバート・クリンジリーは『コンピュータ帝国の興亡』で、その時代に実現するのに必要なコスト、という観点から考えれば、失敗とするのは当たらない、としている。パロアルト研究所に勤めていた David Liddle らが Metaphor Computer Systems を創業し、Star のデスクトップ概念を拡張したワークステーションなどを開発し、後にIBMが同社を買収した。

アップルとの関係
最初に成功したGUI製品はアップルのMacintoshだが、これはパロアルト研究所の成果に触発されたものである。ゼロックスはアップルの公開前株式の購入と引き換えに、アップルの技術者がパロアルト研究所を訪れることを了承した [3]。後にアップルがマイクロソフトをGUIの「ルック・アンド・フィール」の著作権侵害で訴えた際、ゼロックスもアップルを同様の理由で訴えたことがあった。しかし、ゼロックスの訴えは遅すぎたため期限切れとして却下された[4]。

著名な研究者
PARCには著名な研究者が多いが、中でもチューリング賞受賞者のバトラー・ランプソン(1992年)とアラン・ケイ(2003年)がいる。また、ACMのソフトウェアシステム賞を受賞した研究として、Altoシステム(1984年)、Smalltalk(1987年)、InterLisp(1992年)、遠隔手続き呼出し(1994年)がある。また2004年、ケイ、ランプソン、ロバート・テイラー、チャック・サッカーの4人は、Altoの開発に対して全米技術アカデミーからチャールズ・スターク・ドレイパー賞を授与された。

その他の有名人
リン・コンウェイ – カーバー・ミードと共に『超LSIシステム入門』を出版。
チャールズ・ゲシキ、ジョン・ワーノック – ページ記述言語インタープレス開発。PARCを離れてアドビシステムズを設立
ロバート・メトカーフ – イーサネットの発明者。
ランディ・パウシュ – 一時期PARCに勤めていた。
チャールズ・シモニー – WYSIWYGワープロを開発。後にマイクロソフトに移ってからMultiplanなどを開発。
ゲイリー・スタークウェザー – レーザープリンタの発明者
バン・ジェイコブソン
関連する有名人
スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ – ほぼ同時期にPARCを訪問し、それぞれMacintosh、Windowsを生むこととなる。

【reference page】

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【参考動画/reference movie】

Alan Kay’s Dynabook — Rare NHK video(1:14)

 

【reference page】

■Alan Kay(wikipedia)
■A Personal Computer for Children of All Ages

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