Loading

ColleCard

0105_スティーブ・ウォズニアック_Apple II

【Explore More・もっと探検しよう!】

Q1. ウォズニアックがジョブズと一緒にアップル社を設立したきっかけは何だったでしょうか? ➡️
Q2. ウォズニアックが「ウォズの魔法使い」と呼ばれたのはなぜでしょうか? ➡️
Q3. Apple IIは、どのようなパーソナルコンピュータだったでしょうか? ➡️
Q4. Apple IIの大成功によってアップル社はどうなりましたか? ➡️
Q5. Apple IIがその後消えてしまったのはなぜでしょうか? ➡️
A1. ウォズニアックがジョブズと一緒にアップル社を設立したきっかけは何だったでしょうか?

<TOPに戻る>

A2. ウォズニアックが「ウォズの魔法使い」と呼ばれたのはなぜでしょうか?

<TOPに戻る>

A3. Apple IIは、どのようなパーソナルコンピュータだったでしょうか?

<TOPに戻る>

A4. Apple IIの大成功によってアップル社はどうなりましたか?

<TOPに戻る>

A5. Apple IIがその後消えてしまったのはなぜでしょうか?

<TOPに戻る>

【参考動画/reference movie】
【参考ページ】
■スティーブ・ウォズニアック(wikipedia)

スティーヴン・ゲイリー・ウォズニアック(Stephen Gary Wozniak、1950年8月11日 – )は、アメリカ合衆国のコンピュータ・エンジニアである。スティーブ・ジョブズ、ロン・ウェインらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップルの共同設立者の一人。
Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発。多くのコンピューター関係者に人柄を慕われ「ウォズ」と、また、技術者からはApple IIの設計などから窺えるその技術力から「ウォズの魔法使い」とも呼ばれる。アメリカ国家技術賞とグレース・ホッパー賞を受賞している。
経歴
幼少期
ウォズの製作したブルー・ボックス(カリフォルニアのコンピュータ歴史博物館に展示)
ロッキードのエンジニアだった父ジェリー・ウォズニアックのもとに、カリフォルニア州サンノゼにて生まれる。父はウクライナのブコビナに由来を持つポーランド系、母がドイツ系スイス人の家系。出生証明書には「Stephan」と記載されているがそれは間違いで、本人は一貫して自身の名前として「Stephen」を使用しているという。6歳の時、アマチュア無線の免許を取得し、自作キットのアマチュア無線機を組み上げた。13歳の時に、トランジスタの組み合わせによる原始的なコンピュータ(二進加減算機)で科学コンクールに優勝する。
1971年の夏、当時21歳のウォズニアックは友人ビル・フェルナンデスの紹介で当時16歳のスティーブ・ジョブズと知り合い、すぐに意気投合した。その年の秋、ウォズニアックとジョブズは『エスクァイア』誌1971年10月号に掲載されていた記事を読んでブルーボックス(英語版)(不正に無料で長距離電話をかけることを可能にする装置)の存在を知った。2人はスタンフォード線形加速器センターの図書館に出向いてAT&Tの技術資料を見つけ出し、それを元にウォズニアックがオリジナルのブルーボックスを自作した。ウォズニアックはブルーボックスを作ったことで既に満足していたが、ジョブズはこの装置を販売することを決め、学生寮などで1台150ドルの価格で売り回った。ウォズニアックはこの装置の製作者として「バークレー・ブルー」との仮名を使った。ある日、ウォズニアックはヘンリー・キッシンジャーを騙ってバチカンのローマ教皇庁にブルーボックスで電話をかけ、ローマ教皇パウロ6世を呼び出したところ、電話を受けた担当者から(時差の関係で)「教皇は就寝中なので今から起こす」と言われ、慌てて電話を切ることになった。
ジョブズが販売したブルーボックスは最終的に約200台に達し、ジョブズとウォズニアックは大きな利益を上げることになったが、ある日の商談で銃で脅されたことがきっかけとなり、身の危険を感じた2人は装置の販売を止めた。
ウォズニアックも学業が成り立たなくなり、1973年に彼は大学を休学、その後ヒューレット・パッカードに入社し、電卓設計の仕事を与えられた。また、同社社員時代、ジョブズの依頼でアタリ の 「ブレイクアウト」に必要な汎用ロジックICの数を半減させるという仕事を行ったが、この時ジョブズは山分けと称して報酬額をかなり過少に伝え(いわゆる「ピンハネ」)、そのほとんどをジョブズが手にした。

Apple I

1975年、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され人気を博していた。ウォズニアックはAltair 8800よりも優れたマシンを自作できると考え、のちに「Apple I」と命名されるマイクロコンピュータを独力で設計し、完成品を「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」の会合に持ち込み称賛を浴びた。ウォズニアック自身はコンピュータの回路図を無料配布することを望んでいたが、ジョブズはこのマシンを利用したビジネスを始めるべきだと主張した。

ヒューレット・パッカードとアタリにマシンの商品化を断られた後、ジョブズとウォズニアックは自分たちで新事業を立ち上げることを決意した。事業を始めるため、ジョブズは愛車のワーゲンバスを、ウォズニアックはHP製のプログラム電卓(HP-65)を売り払い、1,300ドル余りの資金を捻出した。

1976年4月1日、ジョブズとウォズニアック、そしてロナルド・ウェインの3人は、カリフォルニア州のビジネスパートナーシップとして「アップルコンピュータ・カンパニー(Apple Computer Company)」を創業した。

ジョブズは「アップルコンピュータ」という社名の由来について、当時果実食主義を実践していたことに加え、リンゴ農園から帰ってきた直後だったこともあってこの名前を思いつき、その響きが「楽しげで、元気がよく、威圧感もない」と考え、「その上、電話帳でアタリより上に来る名前でもあった」ので採用したのだと説明している。一方のウォズニアックは、この名前はジョブズが提案したものでありその真意は不明とした上で、「彼は音楽好きであったので、アップル・レコードから思いついたのかもしれない」とコメントしている。

ジョブズが「アップル」を提案したとき、ウォズニアックは即座に「ビートルズのアップル社と同名では訴訟沙汰にならないか?」とジョブズに問い返した。この不安は「アップル対アップル訴訟」という形で現実のものとなってしまった。

1976年6月に、バイトショップに「Apple I」50台を納品。666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロン・ウェインは権利を放棄して会社を去った。しかし、8月を過ぎると売上は好転。ジョブズとウォズニアックは昼夜時間を惜しんでApple Iを作り、そして売った。

アップルコンピュータ設立
Apple II

Apple Iの最初の取引で、約8,000ドルの利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。
マークラは、フェアチャイルドとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にアップルに加わった。マークラは個人資産の92,000ドルを投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はアップルコンピュータを法人化した。
1977年5月には、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコット(英語版)を引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはアップルをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議した。社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが社員番号3、最初の従業員となったビル・フェルナンデスが4で、スコットは5番目の入社であったが、好きな数字である7を社員番号としてもらった。

アップルでの開発
これと前後してウォズニアックは、アップルに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、機能拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをロッド・ホールトが開発した電源以外を、Integer BASICも含めてほとんど独力で開発。1977年6月に発表した。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をアップルにもたらした。
1980年にアップルはIPO(株式公開)を果たし、ウォズニアックには1億ドルを超える創業者利益が転がり込んだ。(創業時のビートル/電卓売却額を株式比率とすると、ジョブスはその6倍、ビートル+ブレイクアウト報酬/電卓+ブレイクアウト報酬とすると10.25倍であるが、実際にはウォズ二アック45%、ジョブス45%、ウェイン10%の株式保有、ウェインが10%の株式を800ドルで誰に売ったかは不明)

1981年2月、サンタクルーズスカイパークでウォズニアック自身が操縦していた軽飛行機が墜落。一命は取り留めたが、事故当時を含め5週間記憶を失った。

1982年にウォズニアックはウッドストック・フェスティバルの再来を夢見て、第1回USフェスティバルのイベントを開催した。正規の入場料を払った参加者は少なく、さらに340人の逮捕者を出して終わった。しかし、ウォズニアックは1983年にも第2回USフェスティバルを開催する。

1985年2月6日、アップルがApple IIを正しく扱っていないことを理由に退社。再びカリフォルニア大学バークレー校にロッキー・ラクーン・クラークという名前で入学し、1986年6月に電子工学の学位を取得した。(なお自伝iWozによると、公式にはまだアップル社員であるらしい。商品を社員割で購入しており、Apple Storeで「社員番号は?」「1番だよ」というやり取りをしているとのこと。また、同自伝によると退社理由はリモコン製作会社設立の為と語っている)

1985年2月、ロナルド・レーガン大統領から米国科学技術メダルを、ジョブズと共に授与される。

【reference page】
■Steve Wozniak (wikipedia)

0106_ダニエル・ブルックリン_VisiCalc

0104_ゴードン・フレンチ_Homebrew Computer Club

関連記事

  1. 0101_ヴァネヴァー・ブッシュ_Memex

    2018.08.09
  2. 0106_ダニエル・ブルックリン_VisiCalc

    2018.08.09
  3. 0108_ジョン・ワーノック_PostScript

    2018.08.09
  4. 0103_アラン・ケイ_Dynabook Concept

    2018.08.09
  5. 0111_ビル・ゲイツ_Windows 95

    2018.08.09
  6. 0113_ティム・クック_Apple Watch

    2018.08.09
PAGE TOP